二十四節気

二十四節気(にじゅうしせっき)は、1太陽年を日数(平気法)あるいは太陽の黄道上の視位置(定気法)によって24等分し、その分割点を含む日に季節を表す名称を付したもの。

二十四気(にじゅうしき)ともいう。太陰太陽暦において月名を決定し、季節とのずれを調整するための指標として使われる。分割点には12の節気と12の中気が交互に配され、各月の朔日(1日)が対応する節気前後になるように月名を決める。実際には月中に次の中気が含まれるように決める。例えば雨水が含まれる月を「正月」と決めると元日の前後半月以内に立春があることになる。中気が含まれない月が現れた場合には閏月が設けられる。ただし、定気法においては例外の処理が必要となる。特に重要な中気である夏至・冬至の二至、春分・秋分の二分を併せて二至二分(にしにぶん)といい、重要な節気である立春・立夏・立秋・立冬を四立(しりゅう)、二至二分と四立を併せて八節(はっせつ)という。

また1年を春夏秋冬の4つの季節に分け、それぞれをさらに6つに分けた24の期間を表すものとして使われることがある。この場合、二十四節気をさらに約5日ずつの3つに分けた、七十二候という分類があり、各気各候に応じた自然の特徴が記述された。日本では暦注など生活暦において使われている。

月の運行のみに基づいた純粋太陰暦による日付は太陽の位置と無関係であるため、暦と四季の周期との間にずれが生じて農耕等に不便である。そこで古代中国では、本来の季節を知る目安として、太陽の運行を元にした二十四節気が暦に導入され、二十四節気による暦と月の運行による暦とのずれが1か月程度になったときに余分な1か月(閏月)を入れて調節するようになった。

二十四節気は、ある時期に突然に発明されたわけではなく、段階的に整備されてきたものである。二至二分は日時計(ノーモン)によって観察しやすいため古くから認識されていたと考えられ、殷周時代には日の最も短い冬至頃に年始が置かれていた。甲骨文字において月名は1、2、3といった序数で表されていたが、ときおり13月が用いられ、冬至から始まる年と月の運行に基づいた月とを調整していた。よって殷の暦法は太陰太陽暦であったが、高度な計算を用いたものではなく、自然の観察によって適宜ずれを修正するような素朴な暦法であった。なお二至二分の名称は、『尚書』尭典には夏至は「日永」、冬至は「日短」、春分は「日中」、秋分は「宵中」と書かれており、戦国時代末期の『呂氏春秋』では夏至は「日長至」、冬至は「日短至」、春分・秋分は「日夜分」と名付けられている。

二至二分の中間点に位置する四立に関しては『春秋左氏伝』僖公5年の「分至啓閉」という語の「啓」が立春・立夏、「閉」が立秋・立冬と考えられており、『呂氏春秋』において「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の語が使われていることから、戦国時代に一般化したと考えられる。なお古代中国人は1年12ヶ月を春・夏・秋・冬の四時に分け、正月・2月・3月を春、4月・5月・6月を夏、7月・8月・9月を秋、10月・11月・12月を冬とした。周では冬至を基準に年始が置かれていたが、戦国時代になると冬至の翌々月を年始とする夏正(夏暦)が各国で採用されるようになり、これにより冬至と春分の中間点が正月すなわち春の最初の節気にあたるようになったことで「立春」と名付けられ、他の二至二分四立も春夏秋冬の名が冠せられるようになったと考えられる。

その他の二十四節気の名称は前漢の『淮南子』において出そろっており、それまでの間に名称が固定化したと考えられる。八節をさらに3分割したのは、月と対応させるためである。戦国時代には19太陽年が235朔望月にほぼ等しいとするメトン周期を導入した四分暦が使われており、1太陽年を12分割した中気は19太陽年235朔望月に228存在し、7回ほど閏月を設ければ月と中気が対応してゆくことを導き出した。これにより中気をもとに月名を決定することが可能になり、漢の太初暦以降、中気を含まない月を閏月とする歳中置閏法が取られた。なお当時の天球分割法の一つに十二次があったが、節気は太陽の視位置が各次の境界である初点にある時、中気は各次の中間の中点にある時とされた(『漢書』律暦志)。

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